おすそわけのある暮らし集う、つながる、新所 おすそわけのある暮らし集う、つながる、新所

新所の歴史
5.海運
浜名湖航路(明治時代)
新所の先駆者の一人に、幕末から明治にかけて活躍した伊藤安七郎がまず挙げられている。明治になって関所が廃止され、禁止されていた浜名湖の湖上交通が自由になったのをきっかけに、安七郎は浜名湖航路を開く運動を始めた。
明治4年頃、入野から浜松東伊場間の運河(掘留運河)が竣工し、新所から浜名湖に出て、浜松への乗り入れが可能になった。そこで、新所・浜松間の航路を開き、本格的運行を始めた。新所村は、明治22年、新所村・岡崎村・梅田村が合併して誕生し、合併当時の村の中心は、日の岡部落を含んだ新所地区であった。日の岡は、浜名湖を渡って浜松とむすび、さらに新所街道を抜けて豊橋に至る海陸交通の中継地であった。
日の岡~浜松間の航路は、東海道を新居から舞阪に渡るよりもこの方がずっと近道で楽だったそうである。そのため、旅館、警察分署、郵便局、登記所、運送会社などが立ち並び、繁栄した。
明治7年春ころには、1日300人前後の利用者とかなりの貨物もあったと推測されている。その後、明治9年(1876年)に蒸気船通運丸が就航し、大いに航路は発展した。通運丸は、長さ12m、幅2m、積載量は2tだった。特筆すべきは、明治14年に女河八幡宮境内の湖畔に造船所が建設され、蒸気船が新造されたことである。しかし、明治21年に東海道線が開通することによって、日の岡の繁栄も衰え始め、明治末期には、船は日の岡から完全に姿を消してしまった。
新所街道
豊橋から湖西の浜名湖岸段丘から下る街道であり、おおむねJR東海道本線と並行している。汽船の就航以来乗客が急増したにも関わらず、日の岡と二川間の道路は農道を踏みつけた程度のもので、人力車・馬車は混雑して旅人の往来は困難であった。
そこで安七郎はこの道路の改修を計画し、明治11年春に改修に着手し、秋には新所と二川間の約6キロメートルが、幅員8メートルの東海道にも匹敵するほど立派な道路が完成した。これが現在の県道新所原停車場日の岡線であり、安七郎の功績がしのばれる。
湖西風土記文庫‐行き交う‐より