おすそわけのある暮らし集う、つながる、新所 おすそわけのある暮らし集う、つながる、新所

新所の歴史
7.半農
新所の農業(江戸時代)
江戸期に入り、新所村が「新所東方村と新所西方村に分村」した。新所地域は水耕米作が中心であるが、産物として琉球表(畳表)・鰻などであったようで、新居宿へ販売していたらしい。
昭和の初期まで盛んだった養蚕
当時この地方は穀物生産が主で米の他、畑では麦と粟・トウモロコシなどの雑穀のみで、自家用の野菜つくりの他は、木綿を少し作っているにすぎなかった。
養蚕は、新所村の村長だった伊藤安七郎が、明治四年春に上州(群馬県)から桑苗を購入して村の有志に無償で配布した。明治末期から大正時代にかけて稚蚕の共同飼育や、安楽飼育(従来より少ない労力で大量飼育ができる)の採用、養蚕教師を招いて飼育方法を研究することなどにより、大変盛んになった。生糸の生産額は昭和初期までの他の産品に比べ最高のものだった。
その後、養蚕は、昭和6年に満州事変が勃発し、支那事変に拡大して生糸の輸出が停止されるまで、盛んに行われた。養蚕は、農家経済に大きく貢献し、蚕が「お蚕様」と呼ばれる時代もあり、生糸は国の輸出経済の花形だった。
湖西風土記文庫‐振り返る‐より
農業人口の減少と耕作放棄地
湖西市は、近年、自動車産業や電器産業などの大小の企業進出で工業生産の伸びが著しく、市財政の大半を占める。東名高速道路をはじめ、東海道線・東海道新幹線とともに近郊に重要港湾があり、企業や工場の進出・立地に適していたからである。
歴史的に見ると、湖西は戦時期を挟んで繊維業が盛んであった。豊田佐吉翁の生家も繊維業を営んでおり、佐吉翁は様々な自動織機を発明し、それが湖西の工業の礎となった。しかし、その後繊維業は衰退し、現在は自動車産業、電気・電子産業が中心になってきた。
多くの市民が生活収入を農業から工場勤務に頼る人が増加してきたことによる農業人口の減少に加えて、少子高齢化による農業人口の減少が顕著である。ここ新所地区でも専業農家の戸数は10戸に満たなくなってきており、耕作放棄地の増加も問題とされるようになっている。
※農地が放置されて山林化された地域もある
1961年の新所北東部
現在の新所北東部